Leo L. Noel, PM, Secretary
横浜Far EastロッジNo.1の15周年を記念して1963年に発行された小冊子より抜粋

  • 日本初のロッジ

    日本最初のロッジとして知られているのはスフィンクス ロッジで、このロッジは米国海軍のペリー提督が日本を開港させた数年後の1862年から1865年まで、アイルランドのグランドロッジの傘下で活動していました。
    当時の名簿は主に軍人会員と日本に居留していた数名の外国人で構成され、およそ20名ほどでした。
    高齢の住人の記憶によれば、ロッジの憲章が窓から吹き飛ばされたことがあったそうです。1、2日経って歩行者が見つけ、もとの所有者にきちんと返されたということです。
    この事件で、会員たちは憲章を額に入れるようにしたに違いありません。
    このロッジは、現在では山下町と呼ばれる居留地の80番地にありました。
    現在テンプルがある(注:1963年当時、以下同様)旧外国人居留地は、当時は横浜から横浜湾(当時はミシシッピ湾と呼ばれていた)へと鬱蒼とした森が続く丘で、この森が当時は本牧と呼ばれる漁村であった。
    現在の元町ショッピング街のエリア1から2のあたりを隔てていました。

  • 横浜のメイスンリー

    ペリー提督が軍と共に撤退すると、スフィンクス ロッジの活動は休止状態になったため、地元の外国人たちがイングランドのグランドロッジにチャーター(憲章)を求め、1866年の6月26日に認可されました。
    このロッジは横浜ロッジNo. 1092と呼ばれ、長い間活発に活動していました。
    最初の会合は1867年にJ. R. Black氏の自宅の一室で開かれました。Black氏は日本で印刷された最初の英字新聞『Japan Gazette』の編集者で経営者でもありました。
    この新聞の初版は2ページ構成で非常に興味深いものです。一般的なニュースは地元のニュース、船積みの通知や広告のほかに、当時の日本がまだ不安な情勢だったこともあり、居留地の外に出る際には細心の注意を払うよう外国人に警告しています。
    武器を持って外出する住民も珍しくありませんでした。あるメイスン会員の子供の頃の記憶では、夜寝る前に父親が庭でピストルを発砲し、付近をうろついている者たちに自分が銃を持っていることを知らしめていたと言います。
    1868年、横浜ロッジ1092は、山下町38番地の土地に引っ越しました。ここはちょうど谷戸橋が運河を超えて元町ショッピング街にかかるあたりです。
    会員たちは、Messrs. John W. Hall & Companyのオークションホール上にあった部屋を利用していました。このロッジに授与された憲章には、当時イングランドのグランドマスターだったゼットランド伯爵が署名しています。
    ロッジは第二次世界大戦前に活動が闇に消え、いまだに復活していません。当時のメイスンの旗は、現在は横浜のメソニック テンプルの壁に掛かっています。

    オテントサマ ロッジNo. 1263もイギリスのグランドロッジ傘下として1869年の6月に承認され、長年にわたって横浜のメイスン テンプルで会合を開いていましたが、第二次世界大戦の前にやはり闇に消えてそのままになってしまいました。オテントサマ ロッジNo. 1263もイギリスのグランドロッジ傘下として1869年の6月に承認され、長年にわたって横浜のメイスン テンプルで会合を開いていましたが、第二次世界大戦の前にやはり闇に消えてそのままになってしまいました。このロッジの旗も横浜のメイスン テンプルの壁に今もかかっています。 ロッジStar in the East No. 640は、スコットランドのグランドロッジ傘下として1879年9月16日に承認されました。

    かつて、横浜のすべてのロッジは、山下町61番地のメソニックホールと呼ばれた建物で会合を開いていました。
    2階建ての煉瓦造りの建物で1890年ごろにメソニックホール株式会社が発行した株式で建てられたものです。1923年9月1日の関東大震災で横浜がほぼ壊滅的な被害を受けるまで、すべての会合はここで開かれていました。

  • 関東大震災

    関東大震災は、日本史上ではおそらく最大の惨事(原子爆弾投下前では)だったことでしょう。
    地震を目の当たりにした人は、「パリやベルリン、シカゴに匹敵する大都市がふたつ、2分もしないうちに消えてしまう姿を想像してみて欲しい。
    12時2分前は何事もなかったのに、12時が来るとがれきや崩れた石に埋もれた地面が延々と広がり、焼け焦げた木の板、もとは何だったのか判明のしようもないがれき、そして灼熱の太陽の下で腕を伸ばして横たわる黒焦げの遺体しか見えないのです。
    残ったのは自分が着ていた背広と、手に持ったままの傘だけだった」と表現しています。
    この地震と火事でロッジが入っていた山下町61番の2階建てのメソニックホールと呼ばれていた煉瓦の建物は、積み重なったトランプのように崩れ落ち、跡形もなくなってしまいました。

    大震災後もメイスンの活動を続けるため、数か月の間は神戸のコリンシアン ホール(Corinthian Hall)で会合が開かれました。
    震災後に横浜で開かれた最初の会合は、ロッジStar in the Eastがアメリカン トレーディング カンパニーの事務所跡で開いたものでした。
    WB Michael Apcarによれば「積み荷用の古いケースや箱がイス替わりで、ろうそくで明かりを取りました。出席していた会員達の間に流れていた空気は、まさにメイスン本来の特徴を具現したもので、貧しくお金はなくとも、ブラザー愛、救済の精神、そして誠実さに満ちていました」と言うことでした。
    他にも誠実なブラザー愛を示す例として、アメリカ南部地区Supreme Council, A & A.S.R.の副グランドマスターであったイラストリアス ブラザーFrazar(第33階級)の逸話があげられます。
    彼は仮設事務所を建て、その二階をメソニックロッジのために開放してくれました。1927年までは、すべての会合がここで開かれていました。

    震災被害からの横浜の復興は遅々としたものでした。
    1963年になっても、外国人居留地とメインストリートのあった場所には空き地が残っていました。
    それは、大方の人々が想像するような第二次世界大戦の空爆のためではなく、繁栄を誇っていた横浜の街を地図から消し去ってしまった恐ろしい地震の爪痕だったのです。
    震災後の短い間、ロッジStar in the Eastは花園橋近くのアメリカント レーディング カンパニーの焼け残った建物で、オテントサマ ロッジは居留地のMessrs. Butterfield & Swire Companyの事務所で、横浜ロッジは神戸で集まっていましたが、最終的にはMessrs. Sale & Frazer Companyで会合を開き、1927年までここで活動していました。

  • メソニック テンプル

    その間にも、恒久的なメソニックホームの建設に向けた活動が始まり、メソニック テンプルを建てるための基金がイングランドのグランドロッジから受け取られました。
    このために選ばれた土地は、外国人居留地の山手町3番地で、現在のメソニック テンプルがある場所です。テンプルの所有者はメソニックホール株式会社で、イギリス憲章のロッジの高位の会員に管理されており、1927年2月12日に奉献されました。
    入り口に真鍮の銘板がふたつあり、そのひとつにはこう刻まれています。

    メソニック テンプル
    神の栄光とフリーメイスンリーに捧ぐ
    横浜 1927年2月12日
    Stanley Edward White D.G.M. P.G.D.

    土地と建物にかかった費用は、1923年9月1日の大震災で崩壊したメソニック ホールに代わる建物の建設用にイギリス連合ロッジから潤沢に送られた費用から支出されました。

    戦後に置かれた二つ目の銘板にはこう刻まれています。
    1946年4月9日の活動再開を記念し、そしてまた大いなる助けの手を差し伸べてくださったEichelberger陸軍中将とクラフトのためにこの建物復興の努力をしてくれた東京メソニッククラブの会員たちへの感謝の気持ちを込めて。
    1948年9月14日
    この建物で会合を開いたロッジには、ロッジStar in the East640、横浜ロッジNo. 1092、オテントサマ ロッジNo. 1263、オリエントマークロッジNo. 304、スコティッシュ ライト、Far EastロッジNo. 1(偶然ですが、現在同じ名前のFar EastロッジNo. 1があります)がありました。
    これらのロッジは建物の使用料をメソニック ホール株式会社に支払っていました。
    財務上の理由で、ロッジStar in the Eastは数年間だけメソニックホール株式会社から離れて、南埠頭入り口の角地にあったオリエンタル パレス レストランの控えの間を使っていましたが、1、2年後に外国人居留地のテンプルに戻りました。

  • 第二次大戦中

    1941年12月8日の宣戦布告で、日本政府はメイスンの建物とともに、ロッジのすべての家具、記章、ジュエル、道具や備品、書物などを没収しました。
    しかしそれ以前にも1937年の「盧溝橋事件」勃発があり、日本政府は圧力をかけ始めていました。
    これは反メイスンとクラフトに関係するすべての人々への圧力の嵐の始まりでした。
    1945年9月以降、戦前からロッジStar in the Eastの会員だった人々が、アメリカ占領軍のメイスン達の協力を得て1946年4月9日にロッジを再開しました。1945年9月以降、戦前からロッジStar in the Eastの会員だった人々が、アメリカ占領軍のメイスン達の協力を得て1946年4月9日にロッジを再開しました。アメリカ陸軍第8軍の司令官でメイスンであったRobert L.Eichelberger陸軍大将が物資面での援助をしました。1946年以来、占領軍と公安部隊の関係者の多くが軍人、民間人を問わずロッジStar in the Eastに入会したり、その所属になったりしました。ロッジStar in the Eastの戦前および戦後の会員たちは、東方でのメイスンリー発展に大きな功績を残し、今も重要な役割を担っています。 アメリカ陸軍第8軍の司令官でメイスンであったRobert L.Eichelberger陸軍大将が物資面での援助をしました。
    1946年以来、占領軍と公安部隊の関係者の多くが軍人、民間人を問わずロッジStar in the Eastに入会したり、その所属になったりしました。ロッジStar in the Eastの戦前および戦後の会員たちは、東方でのメイスンリー発展に大きな功績を残し、今も重要な役割を担っています。
    東京ロッジNo. 2015は、1883年8月10日にイングランドのグランドロッジに承認され、第二次世界大戦前は横浜のメソニック テンプルで会合をしていましたが、戦後は再開されていません。
    旗は今でも横浜のテンプルの壁に掛かっています。東京ロッジ オブ インストラクションは、芝公園の三緣亭(さんえんてい)で正式に会合をしていました。
    一時期、神戸のコリンシアン ホールでは4つのメソニックロッジが会合していました。
    イングランド管轄区から承認された鳥居マーク ロッジ837とFar Eastロッジ アルビオン3729は、すでに活動していません。
    もう一つのイングランド傘下のロッジであるライジングサン1401は、まだ健在です。スコットランド管轄下でロッジ兵庫アンド大阪498として知られるロッジは、活発に活動し繁栄しています。
    このロッジは1906年に韓国のハンヤン ロッジのスポンサーになっています。
    長崎ロッジNo. 710は九州の長崎で短い間活動していましたが、1911年に長崎の外国人コミュニティがほとんどのビジネスを神戸・大阪エリアに移した際に、憲章を返上して閉鎖しました。
    1887年12月25日付けの天皇からの詔勅は、秘密性のある会合をすべて禁じています。1894年、日本在住のアメリカ人のメイスン会員たちは、秘密結社に関する日本の法律が外国の結社にまで及ぶことを恐れて、すべてのメソニックロッジを閉鎖し、米国政府に嘆願書を送りました。
    国務長官はこのことを日本の外務大臣に相談し、メイスンリーは干渉を受けないが、日本人の参加は許可しないことが決められました。
    これが第二次世界大戦の後まで忠実に守られた、いわゆる「紳士協定」です。マッカーサー元帥の下で、日本当局が日本人のメソニックロッジ参加を許可することを要請し、この要請は快く受理されました。
    ある有名な日本のメイスン会員は、戦後日本政府が「紳士協定」について質問された時、政府側はそのような協定については全く知らないと言い、そのため、望めば日本人もメソニックロッジに入会できると日本の役人は言ったと述べています。

  • 戦後

    連合軍による日本占領が始まった頃、多くのメソニッククラブが開かれ、そのうちに米国のグランドロッジからの特免状が要請されました。
    その一例が東京アメリカン ロッジです。
    このロッジは1947年ごろに承認され、コネティカット州グランドロッジの管轄で運営されていましたが、フィリピンのグランドロッジが日本におけるメイスンリーの発展に活発な動きを始めると、東京アメリカン ロッジはコネティカット州のグランドロッジに特免状を返上しました。
    それからフィリピンに特免状を申請し、名前を東京メソニックロッジNo. 125(現在は日本グランドロッジ傘下の東京ロッジNo. 2)に変更しました。
    横須賀海軍メソニックロッジNo. 120は、フィリピンのグランドロッジ傘下で、第二次世界大戦後に日本で認可された最初のロッジでした。
    このロッジは1947年に承認されています。この後に15のロッジがフィリピンのグランドロッジ傘下として設立されました。以下はその一覧です。

    Far East Lodge No. 124, Yokohama, Honshu
    Tokyo Masonic Lodge No. 125, Tokyo, Honshu
    Square & Compass Lodge No. 126, Tachikawa, Honshu
    Kyushu Lodge No. 127 Kokura, Kyushu
    General John J. Pershing Lodge No. 131, Kyoto, Honshu
    Torii Masonic Lodge No. 132, Nagoya, Honshu
    Moriahyama Lodge No. 134, Camp Drake, Honshu
    Sendai Masonic Lodge No. 135, Sendai, Honshu
    Nippon Lodge No. 138, Sasebo, Kyushu
    Aomori Lodge No. 139, Misawa, Honshu
    Kanto Lodge No. 143, Tokyo, Honshu
    Kansai Lodge No. 145, Kobe, Honshu
    Sagamihara Lodge U. D., Camp Zama, Honshu
    Cherry Blossom Lodge U. D., Itazuke, Kyushu
    Rising Sun Lodge U. D., Camp Drew, Honshu

    上記のロッジは、No. 120、143およびライジングサン以外はこの記述の時点(1963年)で、すべて日本グランドロッジの管轄下にあります。

  • Far EastロッジNO.124

    1947年後半に日本にやってきたブラザーHerbert Wolffは、日本に赴任した直後から横浜周辺でメソニック活動ができそうな所を探しました。
    そこにはスコットランド傘下の「Star in the East 640」というロッジがあり、横浜の外国人居留地のテンプルで会合していることを知りました。
    このロッジは、主に戦時中に闇に消えてしまったロッジの憲章を拾い上げ再開したアメリカ人会員が中心になっていました。このロッジを訪ねてみると、アメリカの儀式とはまったく異なることが行われていることがわかったため、彼はこのロッジには魅力を感じませんでした。
    さらに調べてみると、横須賀の海軍基地でフィリピン管轄下のロッジとして機能している横須賀海軍メソニックロッジがあることがわかりました。そこでこのロッジに行ってみると、儀式は彼の知っているカリフォルニア州のグランドロッジのものと似ており、士官のほとんどが海兵隊員でした(ワーシップフル マスターは曹長でした)。
    儀式は海兵隊員らしく完璧で正確に行われていましたが、このロッジは横浜から数マイルも離れていました。横浜には数名のメイスンがいることを知り、彼らに話をしてみると横浜地区のロッジ設立の一助を担いたいという強い意志を示してくれました。
    この話を持ちかけられたのは、Jacobson、Piercey、Ellison、Barrash、Radcliffe,およびHinmanと言うブラザー達で、非常に意欲的でした。ロッジ設立に関して何度か話し合いをした際に、やはりロッジ設立に興味を持っているブラザーWilliam Eichornが横浜にいることが話題に上りました。
    ブラザーEichornは仕事でしばしばフィリピンのマニラを訪れており、マニラのメイスンサークルではよく知られた人物でした。
    ブラザーEichornは彼らから話を聞き、設立のグループに加わりました。ブラザーEichornの助言は、特免状(Dispensation)と憲章(Charter)の要請に向けての一連の活動にとって非常に役立つものでした。
    さらに彼は、責任ある団体からきちんとした形式で出されたものであれば、必要な書類をすべて自らの手でフィリピンのグランドロッジに届けることにも同意してくれました。
    そして、この地域で新しいメソニックロッジを設立する目的で、有効な会員としての身分を有するすべてのマスターメイスンによる会合が、指定された夜に横浜のメソニック テンプルで開かれることが『星条旗新聞(Stars and Stripes)』に発表されました。
    その際、ロッジStar in the East 640がそのために部屋を貸してくれることになりました。指定の夜には50人ほどのマスターメイスンが会合に参加し、目的達成までのすべての行動に調和と権威をもたらすため、メイスンクラブが結成されました。
    その夜はクラブの役員が選出され、フィリピンのモスト ワーシップフル グランドマスターに提示する特免状と憲章の作成と提示までの準備を一歩ずつ進めていくための計画が立てられました。
    管轄区の問題が関わってくる可能性もあるので、横須賀海軍メイスンロッジにも彼らの意思を知ってもらうべきであること、またスポンサーが必要だということが決定されました。
    その3日ほど後に予定されていた横須賀海軍メソニックロッジの次回の会合に、ブラザー Jacobson、EllisonおよびWolffが出席すべきであり、そこでワーシップフル マスターから彼らの案件を出席者に提示する許可をもらい、出席者の反応と後ろ盾になってくれる意思を確認する必要も同意されました。
    横須賀訪問の結果を会員たちに知らせるため、翌週にクラブの会合が予定されました。
    横須賀ロッジに到着すると、ワーシップフル マスターと委員会に迎えられ、そこで質問などをされ、マスターとの非正式な会話の際に訪問の目的を話し、会合でロッジの出席者たちにこの案件を提示する許可と、後ろ盾になってもらうことを嘆願できるようにお願いしました。
    この要請はすぐに受け入れられ、出席者からの質疑応答の後に、横浜ロッジが支援をしてくれること、そしてスポンサーになってくれることを約束しました。
    1週間後に予定通りに行われたクラブの会合で、会員は横須賀訪問の結果の報告を受け、フィリピンのグランドマスターに特免状と憲章を求めるために必要な全ての手順の準備が早速始められました。
    これらの準備とは、新しいロッジの名称、一連の会員規則、提案されている役員の候補者名簿、会員のある程度きちんとした名簿、そして横須賀メソニックロッジがスポンサーの意思があることを示した文書などを整えることでした。
    スポンサーの意思表明はもちろんすでに手元にありましたが、それ以外の準備についてはかなりの時間がかかり、会合は夜遅くにまで及ぶこともありました。
    ブラザーEichornは会合の2日後にマニラへ立つ予定だったため、急いで準備する必要がありました。
    会合では、ブラザーWolffがワーシップフル マスターに選ばれ、ブラザーEllisonがシニア・ウォーデンに、ブラザーJacobsonがジュニア・ウォーデンに選ばれました。チャーターの会員になることを希望しているブラザーの何人かは、親ロッジが二重会員になることを禁じているため、親ロッジを辞めなければいけないこともわかりました。彼らはそれでも新しいロッジ設立のためにはどのような支援も惜しまない考えでした。
    それぞれのロッジからの会費を納めたことを証明できるカードを提出して善良な会員の身分と、ロッジがきちんと運営されていることを証明したチャーター会員は24名いました。
    これらのカードはコピー写真として撮られ、新しいロッジの会員候補のきちんとした身分の証明として、ブラザーEichornは他の資料とともに証明付きのコピー写真をフィリピンへ持ち帰りました。

    ブラザーEichornは予定通りマニラに出発し、Far Eastロッジをロッジとして機能させる特免状を手にして10日後に戻りました。ブラザーEichornの努力と、ロッジを設立させたいという意志がなければ、ロッジとして機能できるまでに何か月もかかったかも知れません。

    選挙で選ばれ就任した役員たちは、それぞれの親ロッジに必要な設備品などを送ってもらえるように頼み、それに応えて多くの品々が送られてきました。ジュエル、エプロン、職杖やワーキングツールが送られ、ブラザーPierceyはオルターに置くための美しい聖書を個人的に寄付しました。

    1948年10月26日、フィリピンのMWグランドマスターから「ここに名前が記載され横浜に在住するブラザーたちにロッジを構成して設立し、それを保持する」との特免状が発行されました。こうしてFar Eastロッジが誕生し、1948年12月31日まで会合が開かれました。その際、ロッジは活動のすべての記録と議事録を特免状とともにフィリピンのMWグランドマスターに提出し、1949年1月にマニラで開催されることになっていた年次総会でチャーターを授与してもらえるように願いました。グランドロッジは1949年1月26日にチャーターの要請を認可し、Far Eastロッジはチャーター番号124を授与されました。

    ロッジマスターのブラザーHerbert Wolffがアメリカに再び就任して行くことになったため、選挙が開かれ、そこでブラザーAbraham Jacobsonがワーシップフル マスターに選ばれ、ブラザーHerbert L. Ellisonがシニア・ウォーデンに、ブラザーElmer O. Hinmanがジュニア・ウォーデンに、ブラザーRichard B. Eldridgeがトレジャラー(会計係)に、そしてブラザーWilliam J. Eichornがセクレタリーに選ばれました。

    初期の頃のロッジについて、WB“Pat” Pearsonは次のように述べています。
    ある夜、ロッジに座ってロッジルームを見渡していると、思い出が怒涛のようによみがえり、多くの顔や名前が次々と記憶に浮かんできました。記憶をたぐりよせると、1948年、初めてFar Eastロッジを訪れた時のことが思い起こされました。その日、WB Elmer O. Hinmanにいろいろと質問をされましたが、私がカリフォルニア州ロッジから来たことを知ると彼は非常に喜び、私が来たことでFar Eastロッジにはケンタッキー州のメイスンよりカリフォルニア州のメイスンの数が多くなったといいました。Far Eastロッジはまだ設立されたばかりの若いロッジだったため、様々な管轄区からのメンバーがいて、それぞれが自分の属するロッジの儀式が優先されるべきだと感じているようでした。これはメンバー中で大きな割合を占めるカリフォルニア州とケンタッキー州のブラザーたちの間の友好的な敵対関係で特に目立ちました。しかし、他の管轄区のメンバーも多く、メイスン活動をしっかりと続けるため、最終的にフィリピンの儀礼に正確に従うことになりました。ロッジで勤勉に奉仕し、信念を貫いたブラザーたちのことを考えると、Wolff、Ellison、Jacobson、Hinman、Kurtz、Coe、Beauchamp、Eldridge、Cartwright、Eichorn、Stevens、Wolitarsky、Spiegel、Radcliffe、Piercy、Halliday、Ehrlich、Deserano、Martin、Wilcherと言ったブラザーたちの名前が蘇ります。これ以外にちょっと名前を思い出せないブラザーもたくさんいます。1948年のメイスン年の終わりには、Far Eastロッジに27名のマスターメイスンがいました。1949年の3月17日(聖パトリックの祝日)、フィリピンのグランドマスターメイスンであったモスト ワーシップフル ブラザーEstaban MunarrizがFar EastロッジNo. 124を承認し、選挙で選ばれた最初のオフィサーたちを任命しました。この日、それ以降メイスンの輪、特にこの地域での輝く光となったロッジが誕生し、Far Eastロッジで育ったブラザーの多くがメイスン哲学を広めるために他の地域に移り、管轄域内外でロッジのマスターになったブラザーもいました。モスト ワーシップフル ブラザーCarlos Rodriguez-Jimenes、モスト ワーシップフル ブラザーGeorge Sadaichi Horiuchiとモスト ワーシップフル ブラザーNohea O. A. Peck はグランドマスターとして日本のグランドロッジに奉仕し、数名のブラザーたちがグランドロッジ オフィサーとして過去に勤めたり、現在も奉仕したりしています。フリーメイスンのスコティッシュ ライトやヨーク ライトで高い名誉を授与された会員もいます。どれもFar EastロッジNo. 1が誇りに思ってよい記録ばかりです。思い出を辿っていくうちに、ブラザーGeneral Walton H. Walkerの要請を思い出しました。彼はFar Eastロッジが中心となって、横浜のデモレーを始動させるよう求め、ブラザーKurtz、Kihlgren、そしてHallidayらがその要請に答えて、惜しみない時間と努力を費やしてブラザーたちを動かし、日本でデモレーを設立しました。初期の頃はブラザーWeaverとブラザーHarding、そして何名もの他の会員たちの支援を受けましたが、その努力は現在も続いています。

    さらに思い出を辿ります。1950年1月4日、日本のメイスンリーは、メイスンの光を求める入会するにふさわしい日本人にその門戸を開きました。入会の儀式は、その当時特免下にあった東京ロッジNo. 125で行われましたが、実際にほとんどの部分を取り仕切ったのはFar EastロッジNo. 124でした。特免により、8名の日本人の希望者が入会を許可され、5人がFar Eastロッジのオフィサーに認められ、私は第1階級のレクチャー(もちろん英語で)をするというすばらしい光栄に恵まれました。Far Eastロッジ初の日本人会員はブラザー ジュウゾウ・セオですが、我々のところに来たときには彼はすでに長年のメイスン会員でした。彼はその前からロッジ ニューヨーク シティの会員であり、1849年に友好会員として我々の階級に加わりました。うれしいことに彼は今も我々のブラザーです。入会を申請した最初の日本人は、ソウジ・ヤマモトで、彼は1950年4月26日に入会が承認されました。ただ残念なことに、彼は第1階級から上に昇格することはありませんでした。現在、ロッジには多くの日本人のブラザーがおり、栄誉ある会員として参加し、奉仕をして支援を続けてくれています。本当に彼らはロッジの屋台骨となり、彼らの努力がロッジの恒久的な存続に繋がっています。

    1952年10月1日、Far EastロッジNo. 124のパスト マスターでもあったRt WB W. J. Eichornが、当時フィリピンのグランドロッジのMWグランドマスターでもあった、MWブラザーSidney M. Austinにより、日本の副グランドマスターに任命されました。これは、日本のグランドロッジ設立の最初の一歩と考えてよいのかも知れません。

    1952年の10月から1954年までの間、フィリピン管轄下のロッジに関わる問題を解決し、極東地域、特に日本でのメイスンリーの発展をさらに強化するための方法を決めるため、新たに就任したマスターや過去のマスターらで構成される日本のための顧問委員会が何度か会合を開きました。

  • 日本のディストリクト グランドロッジ

    1954年のフィリピンのグランドロッジの年次総会で、フィリピン管轄下にある日本のロッジのすべてが日本のディストリクト グランドロッジの設立を願っているという申請書が読み上げられました。この申請は認められ、RWブラザーW. J. Eichornが初代のフィリピンのグランドロッジ管轄下の日本のロッジの初代ディストリクト グランドマスターに任命されました。これも、そう遠くない将来の日本のグランドロッジ設立に一歩近づく動きでした。

    1954年から1956年の間、多くの重要なメソニック活動があり、これらはまさに日本におけるメイスンリーの恒久的な設立への礎石となるものでした。まず、主に日本人のブラザーで構成される関東ロッジの設立がありました。彼らは儀式を日本語で遂行しましたが、それは世界中のメイスンの中でも初めてのことでした。二つ目は、入会の資格があっても日本語しか話さない日本人でメイスン入会を希望する人々が、言葉の壁のせいで躊躇しないよう、3つの階級の儀式が完全に日本語に訳されたことです。1957年10月、ブラジルの日系のメイスン会員の一人が日本語のモニターのコピーを送ってもらえるように依頼してきました。そのため、日本以外の国で設立されたメイスンのロッジでも日本語で儀式が遂行されている可能性もあるのです。繰り返し述べますが、日本のメイスン活動は世界のさまざまな場所で、絆や友愛関係を強くするための貢献をしています。三つ目に、日本のコミュニティで重要で影響力のある人物たちがメイスンへの入会を申し込み、受け入れられていたことから、メイスン活動は日本に深く根付き始めており、将来的には日本人の活動にも影響を与えることは間違いないと思われたことです。

  • 日本のグランドロッジ

    1957年1月16日、MoriahyamaロッジNo. 134が日本にグランドロッジを設立することを検討するための大会を開こうという決議を通しました。ディストリクト グランドロッジの会合は、1957年1月26日に開かれました。Moriahyamaロッジが決議を出し、Moriahyamaロッジのマスターが大会の開催を求めため、これが検討のための主な課題となりました。大会は1957年2月16日に東京メソニックビルで開催され、メンバーが召喚されました。各ロッジから代表4名を送ることになっており、その4名にはロッジ代表として行動する権限が与えられていました。さらに、各ロッジはそれぞれ次の定例会合でこの決議について検討し、反対あるいは賛成の姿勢をとるように言われました。

    毎回、何かの活動があると、フィリピンのグランドロッジは即座にその報告を受け、1957年2月16日に東京で大会が開かれる事が通知されました。大会には16のロッジが出席し、その中の11のロッジが全員一致で決議を是認したと報告しました。3月16日に開かれた大会では、さらに4つのロッジが全員一致で決議を是認し、その結果16のロッジの15が今すぐ日本のグランドロッジを設立すると言うことに好意的でした。フィリピンのグランドロッジは、正式ではない経路で不正確なデータを受け取ることのないように、すべての議事録について速やかに文書で通知を受けていました。

    1957年4月のフィリピンのグランドロッジの年次総会で、以下の提議がグランド セクレタリーに出されました。(1)フィリピンのグランドロッジは日本のグランドロッジを承認する (2)フィリピンのグランドロッジは日本のグランドロッジが友愛関係を結んでいるグランドロッジから承認を得られるように手助けする、そして(3)フィリピンのグランド マスターは、彼が同伴が必要と考える役員とともに日本を訪問し、日本のグランドロッジの役員を任命する、と言うことでした。

    総会では日本の代表団が迎えられ、管轄下のロッジの代表として認められましたが、その翌年のグランドロッジの役員の投票になると、グランドロッジは日本のグランドロッジの会員であるため、投票はできないという決議に達しました。彼らの考えでは、これは日本のグランドロッジの非公式な承認に等しいものだったのです。

    日本のグランドロッジは、1957年5月1日に設立されました。その年の末までには、7つのグランドロッジが日本のグランドロッジを承認し、その他に少なくとも10のグランドロッジが日本のグランドロッジと友愛関係を結びました。スコティッシュ ライトとヨーク ライトは、日本のグランドロッジ傘下の友愛関係のロッジからマスターメイスンを受け入れていました。日本のグランドロッジがもうすぐ設立されることになっていたため、1957年3月16日にFar EastロッジNo. 124は、憲章をフィリピンのロッジに返上し、その日に新たなチャーターを授与されています。

  • 宮川清

    メソニック テンプルの管理人だった宮川(ハイラム)清氏を語らずして、横浜のメイスンリーの歴史を語ることはできません。現在71歳の宮川氏は、人生の50年間を管理人としてクラフトのために奉仕してきたと言っても過言ではありません。すべては1881年、ブラザーOscar Otte KeilがロッジStar in the Eastを横浜に設立してすぐ、清氏の父であった宮川万吉氏が最初の管理人になったのが始まりです。清氏の父親はロッジが3度も移転し、最終的に1911年に山下町61番地に落ち着くまでの間もずっとロッジの管理をしていました。30年間を奉仕にささげた後、ここで1916年に亡くなり、三男がその仕事を引き継ぐことになりました。 宮川清 1892-1966
    戦時中の困難な時期も彼はテンプルのために力を尽くしました。没収されないように書類や記録を隠し、日本政府による調査に対処し、何度も襲った空爆の時にもテンプルの近くにとどまりました。
    この他にも彼の胸の中にしまわれている多くの困難があったに違いありません。この困難な時期にそのような人物を配してくれたグランド アーキテクトにクラフトは感謝していることでしょう。 

    第二次世界大戦の終わりから、ハイラムはテンプルや土地の管理人としてだけでなく、会合のたびにロッジルームを整え、テンプルのコレ―ションルーム(ブルーロッジ、O.E.S.、デモレー、レインボーなどが集まる)で飲み物や軽食などを提供する手伝いなどもしてクラフトに奉仕してくれました。

    宮川家は親子でほぼ1世紀もの間、クラフトに奉仕をしてくれたのです。状況を考えると、世界中のどのメイスンリーにもない記録でしょう。メイスンに関係していたために困難な目にあった人は多くいますが、メイスンでもないのに困難を受け入れた人は珍しいと言えます。彼の献身と忠誠心は実に見習うべきものです。

    1963年3月6日のFar EastロッジNo.1の第71回定例会合で、71歳の誕生日から33日が過ぎた時、清氏は選ばれてメイスンリーの階級を受けることになりました。1963年3月20日の夜、横浜や近辺のコミュニティから80名以上のメイスンたちが出席し、Far Eastロッジで初めて日本語で儀式が行われ、清氏がEA(徒弟)の階級を授与されるのを見守りました。

    その時の出席者の中には我々のパスト グランドマスターのサダイチ・ホリウチとNohea O. A. Peck、そしてグランドロッジのオフィサー4名、RWB Chester O. Nielsen、グランド トレジャラー、VWB Alexander T. Forester、 グランド チャプレン、シニア グランド レクチャラーのWB Floyd J. Robertson、WB Mahlon E. Seese, Jr.、Jr. グランド ステュワードもいました。3つの姉妹管轄区の代表も出席していました。スコットランドのグランドロッジのRWB Myron Bettencourt 、フィリピンのグランドロッジのWB Royal Strickland、そして横浜のロッジStar in the East640とキャンプ座間のライジングサン ロッジNo. 151のワーシップフル マスターたちです。横浜とキャンプ座間のマスターたちは数名のオフィサーやブラザーたちともに正式にFar Eastロッジを訪れていました。マサチューセッツ州のグランドロッジからは、東京のサイナムロッジのプロビンシャル マスターだったWB Harold Oppenheimが出席していました。スコットランド グランドロッジのかつてのディストリクト 副グランドマスターでRWBのGeorge W. Coltonとフィリピンのグランドロッジ傘下のディストリクト#22のディストリクト 副グランドマスターのVWB Robert W. Seeley、それにカリフォルニア州、アーカンソー州、デラウェア州、ハワイから20名が初めての訪問で来ていました。

    日本語の儀礼は、Far Eastロッジのパスト マスターだったWBヨシオ・ヤマダが例証し、相模原ロッジNo. 13のブラザー シンイチ・シゲノブ、横須賀ロッジNo. 120のサダオ・フジタそして同じくFar EastロッジのVoyce、Noel、Seese、Robertson、Oliver、ニシヤマ、Harrison、Coweらのブラザーらが手助けをしました。

    それは「メイスンリーの普遍性」が本当によく表現された夜だったと述べたブラザーも何人かいました。15周年も近いことから、出席した会員の全員が、この夜はFar EastロッジNo. 1の真のマイルストーンとなったと感じており、そう遠くない将来に日本のグランドロッジの会員の大半が日本人になることを願いました。
    前述の記事の資料はMWB Nohea O. A. Peck、WB Herbert Wolff、WB Kenneth R. Pearson、ブラザー シゲル・ニシヤマ、ロッジStar in the EastNo. 640の故RWB E. V. Bernardが『Friendly Tips』に掲載した記事を基に作成したものです。

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