ペリー提督が軍と共に撤退すると、スフィンクス ロッジの活動は休止状態になったため、地元の外国人たちがイングランドのグランドロッジにチャーター(憲章)を求め、1866年の6月26日に認可されました。
このロッジは横浜ロッジNo. 1092と呼ばれ、長い間活発に活動していました。
最初の会合は1867年にJ. R. Black氏の自宅の一室で開かれました。Black氏は日本で印刷された最初の英字新聞『Japan Gazette』の編集者で経営者でもありました。
この新聞の初版は2ページ構成で非常に興味深いものです。一般的なニュースは地元のニュース、船積みの通知や広告のほかに、当時の日本がまだ不安な情勢だったこともあり、居留地の外に出る際には細心の注意を払うよう外国人に警告しています。
武器を持って外出する住民も珍しくありませんでした。あるメイスン会員の子供の頃の記憶では、夜寝る前に父親が庭でピストルを発砲し、付近をうろついている者たちに自分が銃を持っていることを知らしめていたと言います。
1868年、横浜ロッジ1092は、山下町38番地の土地に引っ越しました。ここはちょうど谷戸橋が運河を超えて元町ショッピング街にかかるあたりです。
会員たちは、Messrs. John W. Hall & Companyのオークションホール上にあった部屋を利用していました。このロッジに授与された憲章には、当時イングランドのグランドマスターだったゼットランド伯爵が署名しています。
ロッジは第二次世界大戦前に活動が闇に消え、いまだに復活していません。当時のメイスンの旗は、現在は横浜のメソニック テンプルの壁に掛かっています。
オテントサマ ロッジNo. 1263もイギリスのグランドロッジ傘下として1869年の6月に承認され、長年にわたって横浜のメイスン テンプルで会合を開いていましたが、第二次世界大戦の前にやはり闇に消えてそのままになってしまいました。オテントサマ ロッジNo. 1263もイギリスのグランドロッジ傘下として1869年の6月に承認され、長年にわたって横浜のメイスン テンプルで会合を開いていましたが、第二次世界大戦の前にやはり闇に消えてそのままになってしまいました。このロッジの旗も横浜のメイスン テンプルの壁に今もかかっています。
ロッジStar in the East No. 640は、スコットランドのグランドロッジ傘下として1879年9月16日に承認されました。
大震災後もメイスンの活動を続けるため、数か月の間は神戸のコリンシアン ホール(Corinthian Hall)で会合が開かれました。
震災後に横浜で開かれた最初の会合は、ロッジStar in the Eastがアメリカン トレーディング カンパニーの事務所跡で開いたものでした。
WB Michael Apcarによれば「積み荷用の古いケースや箱がイス替わりで、ろうそくで明かりを取りました。出席していた会員達の間に流れていた空気は、まさにメイスン本来の特徴を具現したもので、貧しくお金はなくとも、ブラザー愛、救済の精神、そして誠実さに満ちていました」と言うことでした。
他にも誠実なブラザー愛を示す例として、アメリカ南部地区Supreme Council, A & A.S.R.の副グランドマスターであったイラストリアス ブラザーFrazar(第33階級)の逸話があげられます。
彼は仮設事務所を建て、その二階をメソニックロッジのために開放してくれました。1927年までは、すべての会合がここで開かれていました。
震災被害からの横浜の復興は遅々としたものでした。
1963年になっても、外国人居留地とメインストリートのあった場所には空き地が残っていました。
それは、大方の人々が想像するような第二次世界大戦の空爆のためではなく、繁栄を誇っていた横浜の街を地図から消し去ってしまった恐ろしい地震の爪痕だったのです。
震災後の短い間、ロッジStar in the Eastは花園橋近くのアメリカント レーディング カンパニーの焼け残った建物で、オテントサマ ロッジは居留地のMessrs. Butterfield & Swire Companyの事務所で、横浜ロッジは神戸で集まっていましたが、最終的にはMessrs. Sale & Frazer Companyで会合を開き、1927年までここで活動していました。
戦後に置かれた二つ目の銘板にはこう刻まれています。
1946年4月9日の活動再開を記念し、そしてまた大いなる助けの手を差し伸べてくださったEichelberger陸軍中将とクラフトのためにこの建物復興の努力をしてくれた東京メソニッククラブの会員たちへの感謝の気持ちを込めて。
1948年9月14日
この建物で会合を開いたロッジには、ロッジStar in the East640、横浜ロッジNo. 1092、オテントサマ ロッジNo. 1263、オリエントマークロッジNo. 304、スコティッシュ ライト、Far EastロッジNo. 1(偶然ですが、現在同じ名前のFar EastロッジNo. 1があります)がありました。
これらのロッジは建物の使用料をメソニック ホール株式会社に支払っていました。
財務上の理由で、ロッジStar in the Eastは数年間だけメソニックホール株式会社から離れて、南埠頭入り口の角地にあったオリエンタル パレス レストランの控えの間を使っていましたが、1、2年後に外国人居留地のテンプルに戻りました。
第二次大戦中
1941年12月8日の宣戦布告で、日本政府はメイスンの建物とともに、ロッジのすべての家具、記章、ジュエル、道具や備品、書物などを没収しました。
しかしそれ以前にも1937年の「盧溝橋事件」勃発があり、日本政府は圧力をかけ始めていました。
これは反メイスンとクラフトに関係するすべての人々への圧力の嵐の始まりでした。
1945年9月以降、戦前からロッジStar in the Eastの会員だった人々が、アメリカ占領軍のメイスン達の協力を得て1946年4月9日にロッジを再開しました。1945年9月以降、戦前からロッジStar in the Eastの会員だった人々が、アメリカ占領軍のメイスン達の協力を得て1946年4月9日にロッジを再開しました。アメリカ陸軍第8軍の司令官でメイスンであったRobert L.Eichelberger陸軍大将が物資面での援助をしました。1946年以来、占領軍と公安部隊の関係者の多くが軍人、民間人を問わずロッジStar in the Eastに入会したり、その所属になったりしました。ロッジStar in the Eastの戦前および戦後の会員たちは、東方でのメイスンリー発展に大きな功績を残し、今も重要な役割を担っています。
アメリカ陸軍第8軍の司令官でメイスンであったRobert L.Eichelberger陸軍大将が物資面での援助をしました。
1946年以来、占領軍と公安部隊の関係者の多くが軍人、民間人を問わずロッジStar in the Eastに入会したり、その所属になったりしました。ロッジStar in the Eastの戦前および戦後の会員たちは、東方でのメイスンリー発展に大きな功績を残し、今も重要な役割を担っています。
東京ロッジNo. 2015は、1883年8月10日にイングランドのグランドロッジに承認され、第二次世界大戦前は横浜のメソニック テンプルで会合をしていましたが、戦後は再開されていません。
旗は今でも横浜のテンプルの壁に掛かっています。東京ロッジ オブ インストラクションは、芝公園の三緣亭(さんえんてい)で正式に会合をしていました。
一時期、神戸のコリンシアン ホールでは4つのメソニックロッジが会合していました。
イングランド管轄区から承認された鳥居マーク ロッジ837とFar Eastロッジ アルビオン3729は、すでに活動していません。
もう一つのイングランド傘下のロッジであるライジングサン1401は、まだ健在です。スコットランド管轄下でロッジ兵庫アンド大阪498として知られるロッジは、活発に活動し繁栄しています。
このロッジは1906年に韓国のハンヤン ロッジのスポンサーになっています。
長崎ロッジNo. 710は九州の長崎で短い間活動していましたが、1911年に長崎の外国人コミュニティがほとんどのビジネスを神戸・大阪エリアに移した際に、憲章を返上して閉鎖しました。
1887年12月25日付けの天皇からの詔勅は、秘密性のある会合をすべて禁じています。1894年、日本在住のアメリカ人のメイスン会員たちは、秘密結社に関する日本の法律が外国の結社にまで及ぶことを恐れて、すべてのメソニックロッジを閉鎖し、米国政府に嘆願書を送りました。
国務長官はこのことを日本の外務大臣に相談し、メイスンリーは干渉を受けないが、日本人の参加は許可しないことが決められました。
これが第二次世界大戦の後まで忠実に守られた、いわゆる「紳士協定」です。マッカーサー元帥の下で、日本当局が日本人のメソニックロッジ参加を許可することを要請し、この要請は快く受理されました。
ある有名な日本のメイスン会員は、戦後日本政府が「紳士協定」について質問された時、政府側はそのような協定については全く知らないと言い、そのため、望めば日本人もメソニックロッジに入会できると日本の役人は言ったと述べています。
ロッジマスターのブラザーHerbert Wolffがアメリカに再び就任して行くことになったため、選挙が開かれ、そこでブラザーAbraham Jacobsonがワーシップフル マスターに選ばれ、ブラザーHerbert L. Ellisonがシニア・ウォーデンに、ブラザーElmer O. Hinmanがジュニア・ウォーデンに、ブラザーRichard B. Eldridgeがトレジャラー(会計係)に、そしてブラザーWilliam J. Eichornがセクレタリーに選ばれました。
初期の頃のロッジについて、WB“Pat” Pearsonは次のように述べています。
ある夜、ロッジに座ってロッジルームを見渡していると、思い出が怒涛のようによみがえり、多くの顔や名前が次々と記憶に浮かんできました。記憶をたぐりよせると、1948年、初めてFar Eastロッジを訪れた時のことが思い起こされました。その日、WB Elmer O. Hinmanにいろいろと質問をされましたが、私がカリフォルニア州ロッジから来たことを知ると彼は非常に喜び、私が来たことでFar Eastロッジにはケンタッキー州のメイスンよりカリフォルニア州のメイスンの数が多くなったといいました。Far Eastロッジはまだ設立されたばかりの若いロッジだったため、様々な管轄区からのメンバーがいて、それぞれが自分の属するロッジの儀式が優先されるべきだと感じているようでした。これはメンバー中で大きな割合を占めるカリフォルニア州とケンタッキー州のブラザーたちの間の友好的な敵対関係で特に目立ちました。しかし、他の管轄区のメンバーも多く、メイスン活動をしっかりと続けるため、最終的にフィリピンの儀礼に正確に従うことになりました。ロッジで勤勉に奉仕し、信念を貫いたブラザーたちのことを考えると、Wolff、Ellison、Jacobson、Hinman、Kurtz、Coe、Beauchamp、Eldridge、Cartwright、Eichorn、Stevens、Wolitarsky、Spiegel、Radcliffe、Piercy、Halliday、Ehrlich、Deserano、Martin、Wilcherと言ったブラザーたちの名前が蘇ります。これ以外にちょっと名前を思い出せないブラザーもたくさんいます。1948年のメイスン年の終わりには、Far Eastロッジに27名のマスターメイスンがいました。1949年の3月17日(聖パトリックの祝日)、フィリピンのグランドマスターメイスンであったモスト ワーシップフル ブラザーEstaban MunarrizがFar EastロッジNo. 124を承認し、選挙で選ばれた最初のオフィサーたちを任命しました。この日、それ以降メイスンの輪、特にこの地域での輝く光となったロッジが誕生し、Far Eastロッジで育ったブラザーの多くがメイスン哲学を広めるために他の地域に移り、管轄域内外でロッジのマスターになったブラザーもいました。モスト ワーシップフル ブラザーCarlos Rodriguez-Jimenes、モスト ワーシップフル ブラザーGeorge Sadaichi Horiuchiとモスト ワーシップフル ブラザーNohea O. A. Peck はグランドマスターとして日本のグランドロッジに奉仕し、数名のブラザーたちがグランドロッジ オフィサーとして過去に勤めたり、現在も奉仕したりしています。フリーメイスンのスコティッシュ ライトやヨーク ライトで高い名誉を授与された会員もいます。どれもFar EastロッジNo. 1が誇りに思ってよい記録ばかりです。思い出を辿っていくうちに、ブラザーGeneral Walton H. Walkerの要請を思い出しました。彼はFar Eastロッジが中心となって、横浜のデモレーを始動させるよう求め、ブラザーKurtz、Kihlgren、そしてHallidayらがその要請に答えて、惜しみない時間と努力を費やしてブラザーたちを動かし、日本でデモレーを設立しました。初期の頃はブラザーWeaverとブラザーHarding、そして何名もの他の会員たちの支援を受けましたが、その努力は現在も続いています。
1952年10月1日、Far EastロッジNo. 124のパスト マスターでもあったRt WB W. J. Eichornが、当時フィリピンのグランドロッジのMWグランドマスターでもあった、MWブラザーSidney M. Austinにより、日本の副グランドマスターに任命されました。これは、日本のグランドロッジ設立の最初の一歩と考えてよいのかも知れません。
1954年のフィリピンのグランドロッジの年次総会で、フィリピン管轄下にある日本のロッジのすべてが日本のディストリクト グランドロッジの設立を願っているという申請書が読み上げられました。この申請は認められ、RWブラザーW. J. Eichornが初代のフィリピンのグランドロッジ管轄下の日本のロッジの初代ディストリクト グランドマスターに任命されました。これも、そう遠くない将来の日本のグランドロッジ設立に一歩近づく動きでした。
メソニック テンプルの管理人だった宮川(ハイラム)清氏を語らずして、横浜のメイスンリーの歴史を語ることはできません。現在71歳の宮川氏は、人生の50年間を管理人としてクラフトのために奉仕してきたと言っても過言ではありません。すべては1881年、ブラザーOscar Otte KeilがロッジStar in the Eastを横浜に設立してすぐ、清氏の父であった宮川万吉氏が最初の管理人になったのが始まりです。清氏の父親はロッジが3度も移転し、最終的に1911年に山下町61番地に落ち着くまでの間もずっとロッジの管理をしていました。30年間を奉仕にささげた後、ここで1916年に亡くなり、三男がその仕事を引き継ぐことになりました。
その時の出席者の中には我々のパスト グランドマスターのサダイチ・ホリウチとNohea O. A. Peck、そしてグランドロッジのオフィサー4名、RWB Chester O. Nielsen、グランド トレジャラー、VWB Alexander T. Forester、 グランド チャプレン、シニア グランド レクチャラーのWB Floyd J. Robertson、WB Mahlon E. Seese, Jr.、Jr. グランド ステュワードもいました。3つの姉妹管轄区の代表も出席していました。スコットランドのグランドロッジのRWB Myron Bettencourt 、フィリピンのグランドロッジのWB Royal Strickland、そして横浜のロッジStar in the East640とキャンプ座間のライジングサン ロッジNo. 151のワーシップフル マスターたちです。横浜とキャンプ座間のマスターたちは数名のオフィサーやブラザーたちともに正式にFar Eastロッジを訪れていました。マサチューセッツ州のグランドロッジからは、東京のサイナムロッジのプロビンシャル マスターだったWB Harold Oppenheimが出席していました。スコットランド グランドロッジのかつてのディストリクト 副グランドマスターでRWBのGeorge W. Coltonとフィリピンのグランドロッジ傘下のディストリクト#22のディストリクト 副グランドマスターのVWB Robert W. Seeley、それにカリフォルニア州、アーカンソー州、デラウェア州、ハワイから20名が初めての訪問で来ていました。
それは「メイスンリーの普遍性」が本当によく表現された夜だったと述べたブラザーも何人かいました。15周年も近いことから、出席した会員の全員が、この夜はFar EastロッジNo. 1の真のマイルストーンとなったと感じており、そう遠くない将来に日本のグランドロッジの会員の大半が日本人になることを願いました。
前述の記事の資料はMWB Nohea O. A. Peck、WB Herbert Wolff、WB Kenneth R. Pearson、ブラザー シゲル・ニシヤマ、ロッジStar in the EastNo. 640の故RWB E. V. Bernardが『Friendly Tips』に掲載した記事を基に作成したものです。
RELIEF
チャリティー活動
ADDRESS/住所
1F Shiba Park Building B
2-4-1 Shibakoen, Minato-ku, Tokyo 105-0011